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ミュージアムにおける学びとリテラシーについて
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名前:
HIRANO Tomoki
職業:
大学院生
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田代英俊
『日本科学教育学会年会論文集』(28) pp.95-98 2004年

2003年に行われたワークショップ「21世紀科学教育の創造」においてキーワードとして提示された「科学コミュニケーション」という概念について、当日の議論の内容と課題を報告する。参加者の問題意識はさまざまであり、「科学コミュニケーション」という言葉の意味合いも微妙に異なる。科学博物館のような生涯学習施設と来館者のコミュニケーションという意味合い、科学に関する政策推進に関する行政用語としての意味合い、市民が専門家とつながるための回路という意味合いなど、複雑に入り組んだ姿を見せている。
「科学コミュニケーション」という言葉の定義は難しいものであることがよく分かった。メディアリテラシー、ミュージアムのリテラシーという言葉にしても、語る主体によって意味は全く異なってくる。その点は頭に置いておかなければならないだろう。

文化、社会のリテラシーとしての科学コミュニケーションと、今すでに動いている政策用語の現実を両方勘案しながら、「自分が何をどのように伝えるのか」「相手が何を表現しているかをどのように理解するのか」「自分の考えとは何か」という自己表現としてのコミュニケーションの本質を見据えつつ、科学に関わる各方面の方々と交流し、各々の立場における科学教育、生涯学習のあり方を伺う予定である。その中で私たち自身の役割、機能を明確化し、今後の活動に一助にしたい。pp.98
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Harriet R. Tenenbaum, Gabrielle Rappolt-Schlichtmann, Virginia Vogel Zanger
Early Childhood Research Quarterly, v19 n1 pp.40-58 2004年

ミュージアムと幼児教育の連携による科学学習の促進についてのプロジェクトについて、実践と評価を行った研究。アメリカの低所得層の子どもたちにボストン・チルドレンズ・ミュージアムで浮力に関する展示を見てもらい、事前事後に教室での学習をし、テストを行ったところ、統制群(国語、社会の展示を見る)よりも複雑な科学的概念の理解がなされていた。ただし、どれが浮いてどれが沈むかについての判断の質は向上してはいなかった。これは社会文化的/構成主義的コンテクストから理解されねばならない。
低所得層の子どもたちに対する教育的配慮、複雑な概念の理解の促進という点は、セサミストリートにつながるヘッドスタート計画、それをめぐる当時のさまざまな教育実践を想起させる。アメリカのチルドレンズ・ミュージアムにも、たしかに「格差改善」というミッションがあるわけで、似ているところがあるのは当然かもしれない。
Linda Ramey-Gassert, Herbert J. Walberg III
Science Education, v78 n4 pp.345-63 1994年

科学博物館の新しい教育的役割について、学校教育との関わり、モノを用いた学びによる科学リテラシーの育成という側面で、先行研究を整理しながら論じる(ここで「科学リテラシー」は「科学的なものの考え方」というような軽い意味で用いられている)。科学博物館はフォーマルな教育の場とは違うインフォーマルな教育の場であり、効果的な展示のデザインによって来館者を自発的な学習へといざなうべきである。量的な評価、エスノグラフィックな調査など、さまざまな手法のミュージアム学習研究がこれから行われるべきだとしている。
科学教育の場としてのミュージアムという考え方がよく見られ、学校教育との連携もよく語られているのは、他の種類の館に比べて「学習」という色合いが濃いと、学習という文脈で捉えやすいということだろうか。

上山信一 稲葉郁子『ミュージアムが都市を再生する-経営と評価の実践』pp.231-271
日本経済新聞社 2003年

ミュージアムを社会的役割を再評価し、経営的な視点で改革を進めるため、集客・立地・提携・人材育成などの戦略が語られる。大量集客ではなく個人にアピールする、都心にサテライト館を作る、百貨店と提携するなど、さまざまなアイディアが飛び交うが、その根底にあるのが人々の「ミュージアム・リテラシー」である。ミュージアムは、人々のミュージアムリテラシーを開拓しなければならない。その対象は、(1)都市開発関係者、(2)行政関係者、(3)地域住民と大きく3つに分けられる。簡単に言えば、それぞれの対象者に、ミュージアムの社会的役割、必要性を認識してもらうことだ。
リテラシーを「開拓」するというとき、どうしても啓蒙的な色彩が見え隠れしてしまう。リテラシーという言葉を使わず、必要性を理解すること、ではいけないのだろうか。たしかにミュージアムは社会的に重要な役割を帯びており、なくなってはいけない存在だろう。それを解決するのは本当に「リテラシー」という言葉だろうか。
森田利仁
『地學雜誌』107(6) pp.862-871 1998年

科学教育の場としての自然史博物館の展示について、その問題点を辛辣に述べる。展示の形式主義、研究分野の形骸化などが語られ、学芸員が業務としてルーティン的に展示を構成し、日本中どこでも似通った展示になってしまっていること、研究成果の保証を大学のような他の研究機関に頼りすぎていることを批判する。そして、現在の日本の博物館にはトップがいないが、実行力のあるトップ(館長)を置くことで、問題の解決の糸口が見えるかもしれないという可能性を提示している。
最終的にマネジメントの話になってしまっているが、博物館を科学教育の場として捉えるということは、博物館の展示は科学という曖昧模糊としたものを伝えなければならないことを意味し、非常に難しい。

[…]自然史博物館は、1)現在の自然史科学の現状を正しく伝えること、2)その未解明の部分に興味をもってもらい、自然史の発展に寄与するような人材を育てること、3)自然史を通して科学的に物を捉え考える姿勢を育むこと、という重い責任を負うているということができる。pp.863
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