ミュージアムにおける学びとリテラシーについて
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HIRANO Tomoki
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大学院生
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有馬知江美
『作新学院女子短期大学紀要』28 pp.51~66 2005年
大原美術館で10年以上行われている幼児対象プログラムのうち、幼児が絵画鑑賞をし、そこから集団的に「お話づくり」をする実践と、そこからもたらされる鑑賞の深化を考える。「お話づくり」は作品をもとに鑑賞者が主観的にお話を構成するという意味で、鑑賞者中心の活動といえるという。
鑑賞者中心のお話づくりという考え方は面白いが、ここでこれが“集団的”に行われているということに注意を払いたい。幼時の発達段階的に、ここまで筋の通った物語をうまく作れるとは思えない。ここに紹介されているお話は、幼児の発話をもとに学芸員ら大人が再構成したものなのだろう。ここで幼児たちに鑑賞の深化が起こっているかは、厳密には評価しがたい。
『作新学院女子短期大学紀要』28 pp.51~66 2005年
大原美術館で10年以上行われている幼児対象プログラムのうち、幼児が絵画鑑賞をし、そこから集団的に「お話づくり」をする実践と、そこからもたらされる鑑賞の深化を考える。「お話づくり」は作品をもとに鑑賞者が主観的にお話を構成するという意味で、鑑賞者中心の活動といえるという。
鑑賞者中心のお話づくりという考え方は面白いが、ここでこれが“集団的”に行われているということに注意を払いたい。幼時の発達段階的に、ここまで筋の通った物語をうまく作れるとは思えない。ここに紹介されているお話は、幼児の発話をもとに学芸員ら大人が再構成したものなのだろう。ここで幼児たちに鑑賞の深化が起こっているかは、厳密には評価しがたい。
[…]「お話づくり」では作品と鑑賞者との関係において鑑賞者中心ということができる。「お話づくり」の開始時、物語を創作するという目的が伝えられるや否や、絵画作品はその目的に即してただちに対象化される。その際、「絵画鑑賞」にみられる子どもと作品との関係性が逆転され、彼らは作品から鑑賞者に向けられる鑑賞におけるなんらかの要請から自由になる。pp.55
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高桑康雄 芝崎順司
『視聴覚教育研究』23 pp.83-103 1993年
弥生美術館の特別展示にワークシートを活用し、それが来館者の鑑賞行動にどのような影響を及ぼすかを調査した研究。視聴覚教育論者である高桑は、博物館を「資料を中心として視聴覚に訴える展示によって来館者の学習を進める施設」pp.83とする。その学習の一助として、ワークシートが位置づけられる。
その結果、来館者はある程度学芸員の意図どおりに展示を鑑賞しており、男女差はほとんど見られなかったが、いくつかの点で年齢差が見られた。ただし、特定の見方を強制するような、選択肢式のワークシートに疑問を抱く来館者も多かったという。
視聴覚教育の文脈で、博物館を「視聴覚的なリテラシー」の必要な場として捉えたことは重要であるように思える。
『視聴覚教育研究』23 pp.83-103 1993年
弥生美術館の特別展示にワークシートを活用し、それが来館者の鑑賞行動にどのような影響を及ぼすかを調査した研究。視聴覚教育論者である高桑は、博物館を「資料を中心として視聴覚に訴える展示によって来館者の学習を進める施設」pp.83とする。その学習の一助として、ワークシートが位置づけられる。
その結果、来館者はある程度学芸員の意図どおりに展示を鑑賞しており、男女差はほとんど見られなかったが、いくつかの点で年齢差が見られた。ただし、特定の見方を強制するような、選択肢式のワークシートに疑問を抱く来館者も多かったという。
視聴覚教育の文脈で、博物館を「視聴覚的なリテラシー」の必要な場として捉えたことは重要であるように思える。
[…]多くの場合、来館者は随意に展示資料を観覧し、館内を一巡して退出する。したがって、館側の展示の意図や趣旨が十分にりかいされないままに終わる場合が少なくないと思われる。それは、来館者の視聴覚的なリテラシーが不十分であるためであろう。pp.83
『ミュージアム・マガジン・ドーム』60 pp.13~20 2002年2月
博多の商業施設「博多リバレイン」の7階と8階にある市立福岡アジア美術館(アジ美)は、開館している場所からして普通のミュージアムと違う。このアジ美の活動の柱は、「交流」であるという。上から視点の「教育普及」という言葉をあえて使わず、積極的に街や学校に出かけていく。
アジ美という美術館の魅力を非常に良く捉えている雑誌記事。日々是ワークショップなアジ美は、「存在自体がファシリテーターといえる」(pp.17)という。アジ美は、人と人をつなぐフォーラム(ひろば)のような場所であり、これが新しいミュージアムの形といえるのかもしれない。
博多の商業施設「博多リバレイン」の7階と8階にある市立福岡アジア美術館(アジ美)は、開館している場所からして普通のミュージアムと違う。このアジ美の活動の柱は、「交流」であるという。上から視点の「教育普及」という言葉をあえて使わず、積極的に街や学校に出かけていく。
アジ美という美術館の魅力を非常に良く捉えている雑誌記事。日々是ワークショップなアジ美は、「存在自体がファシリテーターといえる」(pp.17)という。アジ美は、人と人をつなぐフォーラム(ひろば)のような場所であり、これが新しいミュージアムの形といえるのかもしれない。
橋村愛子
『塵界 兵庫県立歴史博物館紀要』17 pp.89~105 2006年
2005年に行われたミュージアムスクール「ミュージアムでアート探し」の記録。歴史系の博物館でアート探しという、一風変わったプログラムだ。「教科書や既存の概念に捉われずに、博物館資料を鑑賞する。博物館や美術館で歴史や美術と、自分との繋がりを見つける」(pp.89)が目的とされた。
2日間のプログラムで、収蔵品の写真と基本情報が記載された「アートカード」で絵合わせのような遊びをしたり、「美術批評カード」を持って展示室を回ったり。美術について、美術館・博物館について、考えさせられる構成である。ボランティアが参加者に積極的に声をかけ、鑑賞の助けをしていたのも、鑑賞を深めるきっかけになっていた。ワークショップはプログラムだけでうまくいくものではないのだ。
『塵界 兵庫県立歴史博物館紀要』17 pp.89~105 2006年
2005年に行われたミュージアムスクール「ミュージアムでアート探し」の記録。歴史系の博物館でアート探しという、一風変わったプログラムだ。「教科書や既存の概念に捉われずに、博物館資料を鑑賞する。博物館や美術館で歴史や美術と、自分との繋がりを見つける」(pp.89)が目的とされた。
2日間のプログラムで、収蔵品の写真と基本情報が記載された「アートカード」で絵合わせのような遊びをしたり、「美術批評カード」を持って展示室を回ったり。美術について、美術館・博物館について、考えさせられる構成である。ボランティアが参加者に積極的に声をかけ、鑑賞の助けをしていたのも、鑑賞を深めるきっかけになっていた。ワークショップはプログラムだけでうまくいくものではないのだ。
美術鑑賞プログラムという美樹に育つ枝を、うまくのばすには、狙いや目的をあまり固定化せず、子どもたちがやりやすいように、用意したプログラムや教材自体を変えていくことにあるように思われる。幹に見えるプログラムは実は実体がなく、子どもたちの活動こそが一本の幹を形作っているのだ。pp.96-97
内田裕子
『大分大学教育福祉科学部研究紀要』27(2) pp.303~318 2005年
2004年に筆者と大分大学学生らの協力により大分市美術館で実施された造形ワークショップ「生き生き子ども講座 ビーチサンダルをつくろう」についての、企画から実施に至るまでの詳細な記録。その中で、大学が社会貢献としてワークショップを主催することの意義について説かれている。
企画からワークショップ実施までの細かい工程や、当日のタイムスケジュールまで詳しく記述されているが、それはそんなに重要ではない。大学の社会貢献という視点も新しいものではない。行われたのもごく普通の、よくある一般的なワークショップだ。ただ、ひとつ面白いのは、彼女がワークショップを「教材」と書いていることだ。ワークショップは「活動」だが、それを実践するための道具の準備やファシリテーションまでを含めたパッケージとして、ワークショップを捉えているようだ。
『大分大学教育福祉科学部研究紀要』27(2) pp.303~318 2005年
2004年に筆者と大分大学学生らの協力により大分市美術館で実施された造形ワークショップ「生き生き子ども講座 ビーチサンダルをつくろう」についての、企画から実施に至るまでの詳細な記録。その中で、大学が社会貢献としてワークショップを主催することの意義について説かれている。
企画からワークショップ実施までの細かい工程や、当日のタイムスケジュールまで詳しく記述されているが、それはそんなに重要ではない。大学の社会貢献という視点も新しいものではない。行われたのもごく普通の、よくある一般的なワークショップだ。ただ、ひとつ面白いのは、彼女がワークショップを「教材」と書いていることだ。ワークショップは「活動」だが、それを実践するための道具の準備やファシリテーションまでを含めたパッケージとして、ワークショップを捉えているようだ。