ミュージアムにおける学びとリテラシーについて
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HIRANO Tomoki
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大学院生
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上山信一 稲葉郁子『ミュージアムが都市を再生する-経営と評価の実践』pp.231-271
日本経済新聞社 2003年
ミュージアムを社会的役割を再評価し、経営的な視点で改革を進めるため、集客・立地・提携・人材育成などの戦略が語られる。大量集客ではなく個人にアピールする、都心にサテライト館を作る、百貨店と提携するなど、さまざまなアイディアが飛び交うが、その根底にあるのが人々の「ミュージアム・リテラシー」である。ミュージアムは、人々のミュージアムリテラシーを開拓しなければならない。その対象は、(1)都市開発関係者、(2)行政関係者、(3)地域住民と大きく3つに分けられる。簡単に言えば、それぞれの対象者に、ミュージアムの社会的役割、必要性を認識してもらうことだ。
リテラシーを「開拓」するというとき、どうしても啓蒙的な色彩が見え隠れしてしまう。リテラシーという言葉を使わず、必要性を理解すること、ではいけないのだろうか。たしかにミュージアムは社会的に重要な役割を帯びており、なくなってはいけない存在だろう。それを解決するのは本当に「リテラシー」という言葉だろうか。
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水越伸 村田麻里子
『東京大学社会情報学研究所紀要』65 pp. 37-67 2003年
2002年にメルプロジェクトにおいて行われたミュージアムとメディア・リテラシーに関する実践研究。東京都写真美術館を舞台に品川区の中学校との連携型ワークショップを実施し、映像というメディアについて理解するとともに、人々が集まる公共の場としての博物館の機能についても思いをめぐらせる。
ワークショップを通じて子どもたちの変化としては、映像の歴史や多様性への気づき、また映像が人の手によって作られることへの気づきといったメディア・リテラシーへの覚醒のほか、美術館に対する興味の喚起などもみられたという。これは事後のアンケートの結果によるものだが、分析の方法がいまいちよくわからないため、一概にそう言えるとは言い難い。
これは一般的なメディア・リテラシーに関する実践だが、最後には「『メディアとしての博物館』のリテラシー」という言葉で、ミュージアム・リテラシー(彼らはそういう言葉は使っていないが)を育むようなプログラムの必要性が示唆されている。
『東京大学社会情報学研究所紀要』65 pp. 37-67 2003年
2002年にメルプロジェクトにおいて行われたミュージアムとメディア・リテラシーに関する実践研究。東京都写真美術館を舞台に品川区の中学校との連携型ワークショップを実施し、映像というメディアについて理解するとともに、人々が集まる公共の場としての博物館の機能についても思いをめぐらせる。
ワークショップを通じて子どもたちの変化としては、映像の歴史や多様性への気づき、また映像が人の手によって作られることへの気づきといったメディア・リテラシーへの覚醒のほか、美術館に対する興味の喚起などもみられたという。これは事後のアンケートの結果によるものだが、分析の方法がいまいちよくわからないため、一概にそう言えるとは言い難い。
これは一般的なメディア・リテラシーに関する実践だが、最後には「『メディアとしての博物館』のリテラシー」という言葉で、ミュージアム・リテラシー(彼らはそういう言葉は使っていないが)を育むようなプログラムの必要性が示唆されている。
これからの博物館には、博物館の権威やイデオロギーの仕組み自体を積極的に開示し、人々が博物館をメディアとしてとらえなおすような仕掛けを盛り込んだ実践が必要となってくるのではないか。すなわち「メディアとしての博物館」のリテラシーを学んでもらうのである。pp. 52
波多野弘之
岡部あおみ編『ミュゼオロジー実践篇-ミュージアムの世界へ』pp. 147-170
武蔵野美術大学出版局 2003年
博物館を情報という文脈から読み解く「博物館情報論」は現在博物館学の必修科目となっている。この小論は、ミュージアム(美術館)を単なる鑑賞の場から、必要に応じて作家や作品の情報を得ることができるツールのある場として位置づけ、ミュージアムが図書館情報学的な役割もはたすべきであるとしている。
また彼は「ミュージアム・リテラシー」という言葉を用いて(彼はここで佐藤(2003)を踏まえてはいない)「美術館を含むミュージアムという装置をよく理解し、その可能性を引き出す力」の確立を説いている。ここでミュージアムは情報の集積地であり、リテラシーを身につけた来館者はミュージアムから受身的に情報を与えられるだけでなく、自ら主体的にさまざまな情報を得ることができるのである。
ここで語られているリテラシーは、図書館情報学の世界から発しているインフォメーション・リテラシーに近い。膨大な情報の中から自らに必要な情報を引き出すことができるのが、賢い来館者なのだ。
田邊玲奈 岩崎誠司 亀井修 小川義和 国立科学博物館
『日本科学教育学会年会論文集』29 pp. 13-14 2005年
佐藤(2003)のミュージアム・リテラシーの提案を受けて、博物館を学習資源としてうまく利用することができる力としてのミュージアム・リテラシーの可能性を、国立科学博物館を中心としてさまざまな種類のミュージアムが集まる上野の山において子どもたちに博物館を継続的に利用してもらい、その認識の変化を見ることで明らかにしようとした実践研究。
この異分野連携のプログラム(国立科学博物館、東京国立博物館、国立西洋美術館、東京藝術大学、恩賜上野動物園が参加)により、博物館の持つ機能や館ごとの特徴などについて理解が深まったという。そして、「ただ見るだけの博物館から目的に応じて何度も利用する博物館へ」という意識の変化が見られた。
この研究は、平成17年度科研費補助金・基盤研究「博物館リテラシーを育成するための博物館における総合的な学習プログラムの実践的研究」の一部である。今後の詳細な研究報告を待ちたい。
『日本科学教育学会年会論文集』29 pp. 13-14 2005年
佐藤(2003)のミュージアム・リテラシーの提案を受けて、博物館を学習資源としてうまく利用することができる力としてのミュージアム・リテラシーの可能性を、国立科学博物館を中心としてさまざまな種類のミュージアムが集まる上野の山において子どもたちに博物館を継続的に利用してもらい、その認識の変化を見ることで明らかにしようとした実践研究。
この異分野連携のプログラム(国立科学博物館、東京国立博物館、国立西洋美術館、東京藝術大学、恩賜上野動物園が参加)により、博物館の持つ機能や館ごとの特徴などについて理解が深まったという。そして、「ただ見るだけの博物館から目的に応じて何度も利用する博物館へ」という意識の変化が見られた。
この研究は、平成17年度科研費補助金・基盤研究「博物館リテラシーを育成するための博物館における総合的な学習プログラムの実践的研究」の一部である。今後の詳細な研究報告を待ちたい。
浜日出夫
『社会学ジャーナル』23 1998年
博物館には独自の展示構成のルール(博物館の文法)と、それを読み解くやり方(博物館のリテラシー)があることを、土浦市立博物館の歴史系展示への来館者の展示の見方を追うことで示そうとした調査研究。
歴史系展示においてはモノは分類され、クロノロジカルに並べられて解説文がつけられており、それを順番どおりに見る来館者はモノの配列から歴史そのものを読み取ることができ、博物館のリテラシーがあるとみなすことができるという。つまり、ここで博物館展示はひとつのテクストとみなされているのである。
調査は、展示室内の追跡調査と出口でのインタビューからなっており、順走ルートで見学した来館者は一般に見学時間も長く、インタビューによれば高学歴であることがわかった。あまりに単純な調査のため、これだけで何かを言うことができるとは思えないし、リテラシーの概念に対する理解も一面的だが(ここでは展示制作者=学芸員の意図どおりに歴史を理解すること、ということになる)、博物館のリテラシーに着目した社会学的実証研究として参考にできるか。
『社会学ジャーナル』23 1998年
博物館には独自の展示構成のルール(博物館の文法)と、それを読み解くやり方(博物館のリテラシー)があることを、土浦市立博物館の歴史系展示への来館者の展示の見方を追うことで示そうとした調査研究。
歴史系展示においてはモノは分類され、クロノロジカルに並べられて解説文がつけられており、それを順番どおりに見る来館者はモノの配列から歴史そのものを読み取ることができ、博物館のリテラシーがあるとみなすことができるという。つまり、ここで博物館展示はひとつのテクストとみなされているのである。
調査は、展示室内の追跡調査と出口でのインタビューからなっており、順走ルートで見学した来館者は一般に見学時間も長く、インタビューによれば高学歴であることがわかった。あまりに単純な調査のため、これだけで何かを言うことができるとは思えないし、リテラシーの概念に対する理解も一面的だが(ここでは展示制作者=学芸員の意図どおりに歴史を理解すること、ということになる)、博物館のリテラシーに着目した社会学的実証研究として参考にできるか。
[…]モノを分類し、クロノロジカルに並べ、解説パネルや年表や地図を付けて、さらに順路を決めても、それだけではモノの配列が歴史として現れるのにまだ十分ではない。モノの配列はさらに入館者によって歴史として読み取られなければならない。これは文の場合も同じである。いくら文法にしたがって適格に語が配列されていても、読む側にそれを読み取る能力がなければ、それは文としての意味をもたないのである。