ミュージアムにおける学びとリテラシーについて
Recent Entries
(10/18)
(10/18)
(10/18)
(10/18)
(08/02)
Categories
Profile
名前:
HIRANO Tomoki
職業:
大学院生
Search
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
Wittlin, A. S. (1968) Exhibits: Interpretive, Underinterpretive, Misinterpretive. In E. Larrabee (Eds.) Museum and Education. Washington, DC: Smithsonian Institution. pp.95-114
ミュージアムにおける来館者研究の先駆者の一人であるWittlinによる展示論。王侯貴族のコレクションなどからミュージアムの歴史を跡付けたあと、展示をUnderinterpretiveとMisinterpretive、そしてInterpretiveの3種類に分類している。Underinterpretiveは大学博物館に見られるような、研究者のための資料ライブラリであり、展示解説がない。Misinterpretiveは展示の主要な目的が忘れ去られ、あるいは展示以外の部分が強調され、それと異なるものが来館者に記憶されてしまう展示のことである。そして、Interpretiveとは、それぞれの資料がゲシュタルトとして展示の目的を達成しようとする展示である。彼は、実験的な展示やそれに関するインタビューの結果から、公共のミュージアムは、Interpretiveな展示であるべきであると結論づけている。
Wittlinの特徴は、来館者研究に実験的展示・事後インタビューなどの要素を持ち込んだことであると言われる。これは行動主義心理学の影響を色濃く受けたRobinsonとMeltonらとは明らかに異なる点であり、それ以降の来館者研究にも引き継がれていく点でもある。
ミュージアムにおける来館者研究の先駆者の一人であるWittlinによる展示論。王侯貴族のコレクションなどからミュージアムの歴史を跡付けたあと、展示をUnderinterpretiveとMisinterpretive、そしてInterpretiveの3種類に分類している。Underinterpretiveは大学博物館に見られるような、研究者のための資料ライブラリであり、展示解説がない。Misinterpretiveは展示の主要な目的が忘れ去られ、あるいは展示以外の部分が強調され、それと異なるものが来館者に記憶されてしまう展示のことである。そして、Interpretiveとは、それぞれの資料がゲシュタルトとして展示の目的を達成しようとする展示である。彼は、実験的な展示やそれに関するインタビューの結果から、公共のミュージアムは、Interpretiveな展示であるべきであると結論づけている。
Wittlinの特徴は、来館者研究に実験的展示・事後インタビューなどの要素を持ち込んだことであると言われる。これは行動主義心理学の影響を色濃く受けたRobinsonとMeltonらとは明らかに異なる点であり、それ以降の来館者研究にも引き継がれていく点でもある。
PR
Gilman, B. I. (1916). Museum Fatigue. Scientific Monthly 2(1), pp.62-74.
「博物館疲労」という、来館者研究のはじまりと言われる論文。教養があり視力の良い男性に展示を見てもらい、その様子を写真に収めるというやり方で、展示ケースが人に不自然な姿勢をとることを強制させ、それが肉体的疲労につながっていることを示し、それを改善するためのいくつかのガイドラインを示している(作品を詳細に見るためには、その作品から12インチ以上離れてはいけない、など)。
この研究はその後の来館者研究に直接つながっているわけではない。それでもこの研究が数多く引用されているのは、来館者に着目しているという点よりも、展示のやり方(ここでは展示ケース)を評価するという目的で来館者を利用しているという点が、展示評価としての来館者研究を先取りするものとして見られるためだろう。
「博物館疲労」という、来館者研究のはじまりと言われる論文。教養があり視力の良い男性に展示を見てもらい、その様子を写真に収めるというやり方で、展示ケースが人に不自然な姿勢をとることを強制させ、それが肉体的疲労につながっていることを示し、それを改善するためのいくつかのガイドラインを示している(作品を詳細に見るためには、その作品から12インチ以上離れてはいけない、など)。
この研究はその後の来館者研究に直接つながっているわけではない。それでもこの研究が数多く引用されているのは、来館者に着目しているという点よりも、展示のやり方(ここでは展示ケース)を評価するという目的で来館者を利用しているという点が、展示評価としての来館者研究を先取りするものとして見られるためだろう。
川嶋敦子(1999)「来館者研究の歴史的諸相」『展示学』27 pp.16-22
来館者研究の歴史を、1916年のGilmanから1960-70年代の展示の教育的評価までざっくりと振り返るレビュー論文。Gilmanの「博物館疲労」からRobinsonとMeltonの量的調査、Cameronらによるコミュニケーション論や社会学の理論の導入、ShettelとScrevenによる教育的展示評価の手法の開発、Wolfらによる自然主義的評価の提案までの流れを押さえながら、来館者に着目した研究の必要性、その手法の多様性を説く。これが、1980年代以降の来館者研究の隆盛につながっていくということになる。
日本で来館者研究が注目され始めたのは1990年代以降だが、この段階で欧米の来館者研究の蓄積をまとめて紹介したことには意義があったと言える。しかし、これが今の日本の来館者研究の充実に結びついているか(この蓄積を踏まえて議論が行われているか)は微妙なところであろう。
来館者研究の歴史を、1916年のGilmanから1960-70年代の展示の教育的評価までざっくりと振り返るレビュー論文。Gilmanの「博物館疲労」からRobinsonとMeltonの量的調査、Cameronらによるコミュニケーション論や社会学の理論の導入、ShettelとScrevenによる教育的展示評価の手法の開発、Wolfらによる自然主義的評価の提案までの流れを押さえながら、来館者に着目した研究の必要性、その手法の多様性を説く。これが、1980年代以降の来館者研究の隆盛につながっていくということになる。
日本で来館者研究が注目され始めたのは1990年代以降だが、この段階で欧米の来館者研究の蓄積をまとめて紹介したことには意義があったと言える。しかし、これが今の日本の来館者研究の充実に結びついているか(この蓄積を踏まえて議論が行われているか)は微妙なところであろう。
だが一方、このような研究者たちの多大な関心をよそに、博物館の実務にたずさわる人々のあいだでは、来館者研究の重要性はあまり理解されていないのが現状ではなかろうか。その原因の一つには、過去においてどうして評価が必要だったかという事情以上に、評価のための理論や方法論が先行し難解な印象を与えてきたことが上げられるかもしれない。pp.16
黒川純行(1969)「展示効果評価法」『博物館学研究会報告』1 秋吉台科学館・萩市郷土博物館 pp.9-pp.19
日本における来館者研究の先駆的事例。博物館展示の効果を評価する必要性を述べ、実際に実施した手法として、アンケート法、行動軌跡法、雑音聴集法の3つが紹介されている。行動軌跡法の手法としてはMeltonの研究を引用し、そのほかにも雑音聴集という名目で来館者の語りにも着目するなど、来館者の行動を多角的に記述しようと試みていることがわかる。
研究としては粗さが目立つが、展示評価の必要性の指摘は今見ても非常に説得的であり、この研究会が長く続かなかったのが残念である。
日本における来館者研究の先駆的事例。博物館展示の効果を評価する必要性を述べ、実際に実施した手法として、アンケート法、行動軌跡法、雑音聴集法の3つが紹介されている。行動軌跡法の手法としてはMeltonの研究を引用し、そのほかにも雑音聴集という名目で来館者の語りにも着目するなど、来館者の行動を多角的に記述しようと試みていることがわかる。
研究としては粗さが目立つが、展示評価の必要性の指摘は今見ても非常に説得的であり、この研究会が長く続かなかったのが残念である。
このようにして設置された展示を一般来館者が観て、展示の目的が果して企画者の考えていたとおりに正確に受け取られているかどうか、この点について考えてみなければならない。[…]評価のない展示は「ひとりよがりの展示」と言っても過言ではないであろう。pp.10
Silverstone, R. (1988) Museums and the Media: A Theoretical and Methodological Exploration. The International Journal of Museum Management and Curatorship 7(3) pp.231-241
さまざまなジレンマをはらんだ政治的な場での一時的な解決としてテクストを生産し続けるという点で、ミュージアムとマスメディアの共通性を指摘した論考。ミュージアムにはモノ(資料)があり、身体的な空間があるが、それはミュージアムとマスメディアの共通性を語れなくするほどの差異ではないという。ミュージアムもマスメディアも、時間と空間を結合しながらリアリティを形成している。そこでは、政治的・経済的・美的な力学が働いている。
現在、テレビをはじめとするマスメディアにおいては、このような視座に基づく研究が盛んになり始めているが、ミュージアムに関してはそのような研究がまだ見られていないことを指摘し、ミュージアムに関するさらなるメディア的視座からの研究の必要性を示唆している。ミュージアムのカルチュラル・スタディーズを提言するといった意味合いの強い論文であると言える。
さまざまなジレンマをはらんだ政治的な場での一時的な解決としてテクストを生産し続けるという点で、ミュージアムとマスメディアの共通性を指摘した論考。ミュージアムにはモノ(資料)があり、身体的な空間があるが、それはミュージアムとマスメディアの共通性を語れなくするほどの差異ではないという。ミュージアムもマスメディアも、時間と空間を結合しながらリアリティを形成している。そこでは、政治的・経済的・美的な力学が働いている。
現在、テレビをはじめとするマスメディアにおいては、このような視座に基づく研究が盛んになり始めているが、ミュージアムに関してはそのような研究がまだ見られていないことを指摘し、ミュージアムに関するさらなるメディア的視座からの研究の必要性を示唆している。ミュージアムのカルチュラル・スタディーズを提言するといった意味合いの強い論文であると言える。